草餅ウォーク

街歩き、ベイスターズなどの話題についてつらつらと書いていきます。

かつて3つのプロ野球チームが本拠地を置いた都市、川崎を巡る(2)

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前の記事でも紹介した富士通スタジアム川崎の特設ギャラリー。ロッテや大洋を中心にオールドユニフォームや当時の新聞記事、歴代の週刊ベースボール等多数の野球史料を揃えていた。

 

因みにこの特設ギャラリーは観覧料などは取っておらずタダで入ることが出来た。古い資料なだけに傷みやすいなど管理が大変であろうが、出来るだけ綺麗な状態で保存しようと努めてくださっている関係者の方々には感謝したい。

 

そしてこの富士通スタジアム川崎の他川崎競輪場が立地する富士見公園だが、どうやら私が訪れた際は一部工事中だったようで(あいにく許可票を見るのを忘れた…)、富士見公園のスタジアム、競輪場のある南側敷地の国道132号歩道沿いには仮設柵が設けてあった。そしてそこには富士見公園の過去、現在の空撮写真が貼られていた。

 

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まずは昭和27年(1952年)の空撮。1952年という事は高橋ユニオンズが本拠地を置く2年ほど前である。この頃には既に川崎球場、そして川崎競輪場があったことが確認できる。また富士見公園を横切る現在の国道132号、そして南側(写真左側)には現在の県道101号も既に立派な道路として存在していることが分かる。

 

川崎球場プロ野球界に強烈な記憶を残してきた球場である。高橋ユニオンズは創設から2年後の1956年シーズンを最後にその歴史に幕を下ろし、わずか3年だけ存在した球団として人々に知られる存在になってしまったが、ユニオンズが創設された翌年に大阪から洋松ロビンス(大洋松竹の略称。1953年シーズンは大洋松竹ロビンスというチーム名で戦い、その翌年の1954年は大洋松竹の略称であった洋松を正式名称にしてペナントを争ったようだ)改め大洋ホエールズがやってきた。それからも大洋は他の2リーグ分立に際して創設された新興球団と同じように低迷を続け、特に松竹との合併後はシステムの混迷もあったであろうが特に厳しい低迷に悩まされ続ける。しかし球団創設から10年目のシーズンである1960年に初優勝を飾った。その後成績面では1960年代に阪神等の古参・伝統球団と優勝を争うことはあってもなかなか浮上できなかったが、投手では秋山登氏、平松政次氏など、野手では天秤打法で知られた近藤和彦氏や松原誠氏、山下大輔氏、ジョン・シピン氏などの選手たち、そして70年代のみかんや湘南電車のカラーリングをモデルにしたと言われる湘南カラーなど印象に残るチームの礎になってきた。大洋はその後東京の近郊でありながら東京でない、だが神奈川県の中心地として、開港して以来特別なブランドのある横浜でもない、その中間地点にある川崎と言う都市で球団を運営していくには限界を感じたのであろうか。結果更なるマーケティングの拡大とブランド都市横浜、そしてその横浜に県庁を置く神奈川県全体への密着を図り横浜への移転を決定してしまう。
そんな川崎市は何とか大洋に川崎に残ってもらえないかと様々な提案をしたようだが、結果移転を止められず当時ジプシー球団となっていたロッテを誘致。ロッテは川崎移転直後の1974年に前期・後期の二期制をとっていたパリーグで後期優勝、その後のプレーオフで前期優勝チームの阪急を下してパリーグ総合優勝チームに輝き、更に日本シリーズで中日をも下し毎日オリオンズとして2リーグ分立後初めての日本一チームとなって以来の2回目の日本一を勝ち取った。これがロッテにとって最後のシーズン勝率1位での優勝、そして日本一となっているが、これを塗り替える日が早く来てほしいものだ。その後は阪急や近鉄、西武が黄金期を迎えロッテに勝利の女神はなかなか微笑んでくれずに80年代にはチーム成績は低迷、更に川崎球場の施設の老朽化も相まって他のパリーグファンにも弱いチームという印象を植え付けてしまった。閑古鳥が鳴いていた川崎球場を伝えるエピソードの中で特に有名なのは流しそうめんの話だ。
しかしそんな低迷期のロッテオリオンズにも投手では村田兆治氏、そして野手ではレロン・リー氏、そして何よりもロッテで3度の三冠王に輝いた落合博満氏といった名選手がおり、当時のロッテファンに夢を見させてくれた事だろう。ナムコ(現:バンダイナムコ)・ファミスタシリーズ開発者の岸本好弘氏も研究のために川崎球場に訪れていたそうである。(『岸本好弘-Wikipedia 趣味』岸本好弘 - Wikipediaより)

 

 

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そして時代は飛んで平成2年(1990年)の空撮写真。この写真では先ほどの写真と撮影された方向が異なっており写真左側が北となるので注意してほしい。この頃の川崎球場ロッテオリオンズ末期、翌年に人工芝に張り替えられ更に一年後にはロッテは千葉へ移転という状況である。当時既にロッテには後に千葉ロッテのスターと言っても良い存在となる小宮山悟氏がルーキーとして、更に伊良部秀輝氏や初芝清氏も入団していた。またYouTubeにうpされている動画を見るとどうやら現在ZOZOマリンスタジアムのウグイス嬢を務められている谷保恵美さんもこの頃(動画では1991年となっているので1990年にはどうだったかと言われると厳密には不明)から川崎球場で現在の役職に就かれていたようだ。それにしてもこの写真を見る限りでは内野席の座席の色が横浜ブルーに統一される前のハマスタのそれに似ている…という感じがするのは私だけだろうか。

また富士見公園の敷地とは離れているが、写真左端には川崎競馬場の姿も確認できる。

 

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そして最後に平成21年(2009年)の空撮写真である。今度は富士見公園を東側上空から撮ったもので、写真左側が南である。奥に見えるのが市街地や川崎駅周辺のマンション街やであるが、1枚目の戦後間もなくの写真の状態から比べてみると相当な栄え具合である。この時点では既に川崎球場はアメフト専用の球技場へと改修済みであることが分かる。

 

今度は富士見公園から国道132号の方へ少し視点を動かしてみる。

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なんと国道132号の方に目を向けてみると、信号名に川崎球場の名が…これには感銘を受けてしまった。1999年にかつて川崎球場を本拠地とし、川崎球場や神奈川県を巡って利権を争ったロッテと横浜の両球団がこの地でオープン戦を行ったのを最後に硬式野球場としての歴史に終止符を打ってから20年弱、時が経ってもなお信号にその名前を残しているというのは他に候補となる名称が無かったが故かもしれないがこの地は川崎球場、と川崎市行政や地元の人々に根付いていたからではないか?と想像を巡らせてみる。

 

最後にに降り立ってから富士見公園に来るまで、市内を歩いていたら気になるスポットがあったので紹介してみる。(京急)川崎駅から東へ何となく歩くと…

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街灯横に佇む、東京近郊では珍しい丸ポスト。横の街灯に張られている標示を見てみると、

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川崎市内で使われている丸ポストはない、だが復活第一号であるらしく、この丸ポスト自体は多分現に使われているものなのだろう。宿場町に端を発する都市として歴史を重視したまちづくりをしていこうという試みの一つなのだろうか。

 

そして県道9号へ出て更に東へ歩くと、稲毛公園という名の公園が道北側に現れる。

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この公園の北側に稲毛神社という名の神社があるため、この名が付けられたのだろうか(或いは神社の敷地という可能性も)。そしてこの公園、写真左側にも確認できるがかつて多摩川に架かっていた橋の親柱が移設され置かれている。

 

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その名も六郷橋。現在も六郷橋という名の橋は第一京浜(国道15号)の一部として多摩川に架かっているが、この親柱は先代の六郷橋のものだそうだ。

 

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親柱に埋め込まれた銘板。どちらもひらがなのものであるがこの2本は川崎側にあったもので残りの漢字が彫られた方の銘板と親柱は多分蒲田側にあったのだろう。